戦国時代、一向宗や前田家が治めた加賀国、金沢について紹介したいと思います。
金沢城

先ずは、加賀と言えば、加賀百万石を治めた前田家の居城である金沢城が有名ですね。現在も、金沢城、その庭園の兼六園など公園が整備されています。実に広大な敷地で、さすが百万石という印象を受けます。




金沢城があった場所には、前田家の仕えた織田方が入る前、一向宗の本拠だった尾山御坊(または金沢御堂)が建てられていたそうです。
金沢城の前身・尾山御坊(金沢御堂)
応仁の乱後の戦国時代、当時、加賀守護だった富樫氏の圧政に反発し、国人、百姓らが一向宗・本願寺の名の下にこれを討ち果たす一揆が起きました。その後、守護が置かれることはなく、実質的に本願寺が戦国大名のように加賀を統治することになります。そして、1546年(天文15年)に金沢城の前身となる尾山御坊(金沢御堂)が本願寺の拠点として築かれました。
一向宗・本願寺の本拠としては山城国(京都府)の山科、摂津国(大阪府)の石山があり、その拠点としては各地に点在しています。加賀は国を治めるほど一向宗の力が強く、その中でも最も大きな拠点の一つでした。なお、山科は本拠であったにも関わらず、一向宗のあまりに巨大な戦力を危険視した細川晴元らに攻められて焼き討ちで全焼して失っています(晴元も散々、一向宗の戦力を利用したのですが、取って返したように…)。
一向宗は仏教の宗派の一つでしたが、戦国時代、宗教勢力と言えども、その治安の悪さ故、武の力に無縁ではいられない時代でした。そのため、戦国時代の宗教勢力には宗教本来の神人と武の力を司る(あるいは宗教を悪用する)悪僧が混在しているような状態だったようです。
そして、その武の脅威から、加賀隣国の越前朝倉氏と諍いになったり、織田信長などの戦国大名との争いに巻き込まれて行きます。最後には、織田勢に加賀の尾山御坊(金沢御堂)は1580年(天正8年)に攻め落とされます。石山も、信長と和睦して明け渡しています。
その後、豊臣政権下で前田利家が加賀を治めることになりました。その前田家により金沢城は整備されて行きました。
筆者の著作である「近江応報 -戦国浅井家三代 亮政編-」にも、本願寺との関係が少し描かれています。北近江・浅井家の礎を築いた浅井亮政ですが、その京・中央で名を上げるきっかけが本願寺との関係にありました。ご興味があれば、是非、ご一読頂ければと思います。
ライター: 有峰行信




